寛政9年(1797)に加東郡長谷村に祇園牛頭天王を勧請した神社が、嘉永6年(1853)にあらたに造営されるため、あらためて祇園社の西梅坊から差し遣わした文書の写しである。
勧請した御神体が「感神院祇園牛頭天王神璽」とされており、幕末期にも祇園牛頭天王の名称が使用されていたことがわかる。「神璽」とは、御神体そのものをしめす言葉として使われている。
祇園祭と同様に6月7日・14日に祭礼を行うべきとしており、地方への祇園祭の伝播の形跡を伝えるが、現在、この神社及び祭礼が存続しているかは不明である。
安鎮の事 厳霊與
感神院祇園牛頭天王神璽
右、今般信仰に仍って勧請せしめ畢
いよいよ例歳六月七日十四日
御神祭経営の事
怠慢有るべからず条、仍って件の如し。
嘉永六癸丑年五月
祇園社別当
西梅坊
播州加東郡
長谷村役人中
右は其村中へ寛政九丁巳年五月
勧請これ在るところ、今度、御宮造営につき
尚また証書相改め差し遣わし条、添書件の如し。
(寳光井家文書)
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