江戸時代における祇園社の修理は、文政4年の大修理を最後とする。
この修理は宝寿院賢円により開始されたが、資金難となり頓挫する。
これを援助し、修理を成功させたのが、祇園祭の駕輿丁を務めた轅町である。
この功績により、轅町の面々は、勅使(※この時は柳原隆光)の参向による正遷宮の儀式において、宝寿院賢円から「素襖侍烏帽子着用、仮殿より本宮まで御羽車庭上駕輿丁の役」を許すとされたのが、この許状である。
この許状については宝寿院の日記の文政4年7月19日条にも、
「轅町之者共、損修復出精いたし候ニ付、正遷宮之節、階下より階下迄御羽車可奉舁之旨御許状被成下候事」
とあり、また、素襖・烏帽子は宝寿院から轅町の人々に与えられたことも記されている。
祇園社が町衆の力に支えられてきた神社であった歴史を物語るものである。
祇園社庭上駕輿丁の事
今般、本宮修理成就に就き、正遷宮、日時並びに勅使御参向
勅許を蒙り、神幸の儀式執り行い候。
抑も轅町中の者、往古より当宮の御輿迎御霊会駕輿丁の役
相勤められ候。神人たるにより修補格別神忠丹誠挺んぜられ、
これにより素襖侍烏帽子着用、仮殿より本宮まで御羽車
庭上駕輿丁の役、厳重相勤めらるべし。
仍って許状、件の如し。
社務執行
文政四年巳七月十九日 賢円 花押
(寳光井家文書)
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